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2重虹 [雑感]

2重虹s.JPG 朝、京都の研究所の庭で西向いて散水すると2重虹が見えました。上の虹と下の虹で、色の順序が逆になっています。また二つの虹の間は、やや暗くなっています。これらの現象は、水滴による光の反射から生じることが物理学によって完全に説明されています。

専門店の専門書の分類はどうなっているの? [雑感]

DSCN9533.JPG 先日福岡市の中心部に出かけ、久しぶりに大規模書店に立ち寄りました。専門書も揃えている大きな書店で、わたくし自身の書いたあるいは訳した本も何冊か書棚に配架されています。しかし、最近の「社会物理学」(共立出版)、「つながりの物理学」(裳華房)や少し前の訳本「パーコレーションの基本原理」(吉岡書店)が、物理学ではなく数学の棚の並びの「カオス・複雑系」の棚に配架されているのを見て驚きました。これらの本で扱っているのは、少なくともカオスではなく、従来考えられている複雑系とは異なった学問分野です。従来の物理学の概念では理解できない自然現象や社会現象でみられる普遍的性質を、統一的(物理的)に理解するための新しい物理的概念・手法を確立する学問分野ですから、物理学の領域に新しく棚を設けてほしいものです。
 出版社の方によれば、どこに配架するかは書店次第だということです。科学研究費の研究分野の見直しも、時代と遅れてしか行われませんが、書店における学問分野の枠組みはさらに遅れていると感じました。

驚きの連鎖事象:日経の春秋(3月29日)のこと [雑感]

昨日、いとこの娘さんから「高橋和巳のことが日経の”春秋”にでてるえ」と電話があった。このコラムは、読売新聞の2023年2月14日 朝刊 読売歌壇に掲載された
「高橋和巳全集」を書架より外す 青春にいざさらばする友
という短歌と、「作者や友人はどんな日々を過ごし、今に至ったのだろう。」ということから話が展開されている。この短歌が生まれるきっかけを作った当人として、驚くべき事象の連鎖を記しておく。
 ことの発端は、私が継承しているいとこの作家 高橋たか子(高橋和巳の夫人)の実家の遺品整理である。その遺品のことが京都新聞で取り上げられ、それをきっかけとして私が高橋たか子・高橋和巳のことを大学の同窓生とのzoom談話会で話した。参加していた同窓生の一人K氏は、「断捨離の際に高橋和巳全集を捨ててしまった」と言うことだったが、K氏はその談話会のことを幼なじみのKさんに話をされた。Kさんは、「高橋和巳全集を捨てる」ことがその友の青春への訣別であることに思いを致し、上記の歌を詠まれたと言うことであった。この短歌が日本経済新聞の記者の目に触れ、春秋のコラムが書かれた。この事象の連鎖は、まだまだ続くのであろうか。
Kさんの上記の短歌を読んですぐに
書架うめし 高橋和巳 全集を 下ろしし友の 春は新たに
という歌がほとばしり出た。

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山元春挙の「法塵一掃」と科学研究 [雑感]

明治から大正・昭和にかけて活躍した日本画家山元春挙の若い頃の代表作に「法塵一掃」がある。唐の禅僧周金剛が「経典は法の塵にすぎず、禅の悟りに不要であるとして、経典を焼き捨てた」という逸話を画題としたものである。描かれた僧の表情、衣、経典から上がる煙の描写は、極めて精緻ですばらしい。
 この絵を描いた頃に山元春挙が持っていた絵画制作に対する考えは、黒田天外の「名家歴訪録 中編」(1901)から知ることができる。原文のまま記すと
・一つの畫を描かふと思ひ、種々と工夫を凝してゐる間は頗る苦心惨澹ですが、其間に興趣が坌涌して氣乗がして來ると、もうぢっとしてゐられんことになる。而していざ筆を下ろすといふ際になっては、所詮無我で一物の胸中に蟠まる處なく、只筆に任せて描く。(108ページ)
・心酔したからとて包含咀嚼の力あるものはいつか脱化するので、一時の心酔は或る新境を拓く他日の動機になるであろふと思ひます。(109ページ)
・古人がこしらへて置いたよい形式は飽くまで學ばねばならんので、學んで之を自己に點化し、而して之を忘れる境界に到らねばならぬ。(110ページ)
 科学の研究は、それまでの知見の蓄積の上に発展するものであるが、従来の教科書を金科玉条のごとく信奉するなら新しい発見は生じ得ない。新たな発展のためには、法塵一掃のごとく、教科書や論文は批判的に読み、「読み捨てる」ことが肝要である。また、自然現象を理解しようとするとき、「あるときは分子になり、またあるときは波になって」、その現象の素を想像し、その想像の中から本質を見いだすことができれば、理論はほとばしり出てくる。この過程は、芸術や文学の製作・執筆と科学研究の創造力の源として揆を一にする


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3.11 10年後 [雑感]

2011年3月11日14.46には、東京電機大学の研究室で、机に向かっていました。初期微動が長く、遠くの強い地震だと思っているところに、突然どんと大きな揺れが始まりました。倒れそうに揺れる本棚の前に飛んでいって、両手を広げて押さえていると、机の上のパソコンのモニターが今にも落ちそうに大きく揺れ出しましたが、足や手を伸ばしても届かないので、本箱を押さえながら落ちないように祈っていました。数分後揺れが収まったときは、3冊くらい本が床に落ちる程度でした。どこかの大きな地震だと思い、すぐ物理実験室に行ってテレビを見ました。ヘリコプターからの映像で、陸に向かっている大きな津波が映されているのを見て、思わず「これはソリトンだ」と同僚に言ったのを思いだします。地震と津波の被害があれほど大きかったことは、その夜まで予想もできませんでしたし、また原子力発電所がメルトダウンや水素爆発を起こすことなど、とても想像できませんでした。夕方訪れたスーパーやホームセンターは普段通り、電池も食料もあると思っていたら、次の日にはほとんど売り切れていてびっくりでした。14日に羽田から福岡に戻ったのですが、最寄りの東武東上線が停止していたので、運行していたリムジンバスを利用しました。15日に埼玉県上空にきた放射性粉塵を避けられたのは幸運でした。今も、亡くなった人、行方不明の人の数だけの悲劇と助かった人の数だけの奇跡を思うとき、胸が詰まります。
この大震災は、大きな課題を人類に突き付けました。エネルギーを原子力に頼る社会のもろさ、虚構に過ぎない安全神話を生み出した科学の責任、この課題に真摯に向き合うことなく進められる復興政策やエネルギー政策。また現在のコロナ禍は、「観光立国」の脆弱さ、すなわち日本が食料も医薬品も日用雑貨など必須のものを自国内で生産できず、観光客や技能労働者が来なければ成り立たない社会であることを露呈しています。この10年間に経験したことを踏まえて、そのような社会の仕組みを根本的に変えて、次の世紀につなぐことが求められていると思います。
すでにお読みいただいているかも知れませんが、少し前に公表しました科学者の責任と新しい社会の仕組みについての論考のリンクを記しておきます。コロナ後の社会を考えるとき、これら二つの視点は極めて重要であると思います。

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新型コロナ雑感1 政策について [雑感]

新型コロナ問題についての論文がメディアでも取り上げられています。論文の「市中の感染者を速く隔離することが重要」という主旨を理解せずに取り上げているメディアは、仮に計算した数値のみを示すだけになってしまい、私の提案を一般の方々に理解して頂くことの難しさを痛感しているところです。

私も含め市民の中には、政府の対策や行動自粛の科学的根拠などについて、もやもや感が拭えず、不安や不満をお持ちの方が多いと思います。先日来、1.政策のこと、2.科学的根拠のこと、3.出口戦略のことについて考えていたことを三つのブログとして記しておきます。これらのブログが、皆さんのもやもや感を少しでも拭えればと思います。

政策について

1.安部首相の「新規感染者が退院数を下回れば良い」発言について;発言の科学的根拠やそれぞれの単語の意味が分からないですが、普通考えられているように、前者は日々陽性者の数、後者は報道されている退院者の数としますと、安倍首相の発言は、入院中の感染者の数が減っていく傾向にあれば、つまり医療崩壊に向かっていなければ良いと理解できます。一方、大切なのは市中感染者がどれだけ増え、今いる市中感染者が毎日どれだけ感染力を持たなくなるか、どれだけ隔離されるかです。前者が後者二つの和を下回れば、市中感染者が減っていくはずです。今のところ無症状者を治療するわけにはいきませんから、政策としてできるのは、ちゃんとした仕組みを作って隔離を増やすことと、市民は感染しないように行動を自粛することが必要になります。病院の空きベッド数がだんだんと増えていけば、解除の条件になる、のは、大事ですが、市中感染者の減少の傾向を見ること無しに政策が決定されるのであれば、レッドカードを出したいと思います。

2.1-3月の対応と新年度予算:新型コロナウイルスのことは12月には分かっていましたが、政府は緊急事態宣言前に予算を通してしまいました。市民は、宣言後に不要・不急の行動や旅行をしないことが要請されましたが、この予算の中の不要・不急の事業を仕分けによって執行猶予し、緊急事態の対策費に充てるべきだと思います。国全体がOneTeamとしてこの事態に対応するためには、ぜひ野党に「事業仕分け」をやってもらえればと思います。

3.検査体制について:初期のPCR検査体制は、かなり制限的であり、症状があってもななか検査されませんでした。高熱が4日間続くまで、検査の相談もできず、相談しても武漢や湖北省と関係がないと検査されないという期間が長く続きました。この検査体制は、もちろん検査のキャパシティや隔離先のベッド数・医者の数などを考慮して取られたものでしょうが、本来は逆に、感染症に指定した政令を早期に改訂し、軽症・中症・重症者に対する隔離の仕組みを、場所、自宅待機者への支援方法を含めて、整えておくべきであったと思います。12月から1月にかけては中国からの観光客も多かったので、無症状の感染者が広がっていたいう疑いはぬぐえません。

4.政府の対策の科学的根拠:検査体制や行動自粛に対して、根拠なく数値が示されてきたのが、市民のいらいらの一つの原因だと思います。数値目標を示すなら、その根拠を明確にしないと誤解が生じます。例えば、行動8割自粛すればよいのであれば、会社に行かないので、近くの商店街やホームセンターに短時間出かけるだけなら8割自粛達成と言うことになりかねません。会社では個室にいる人が商店街を歩き回れば、接触機会はかえって増えるかもしれません。主要な駅の混み具合だけを見ても各個人の接触機会の減少の尺度にはならないと思います。

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東京でのこと [雑感]

先日何10年かぶりに東京銀座の歩行者天国に行きました。海外からの訪問者が多いことに驚きましたが、それ以上に驚いたことがありました。少し休憩しようとしてもあたりにベンチがなかったので、歩道脇の植え込みの周囲の石組みに腰掛けていると、ガードマンらしき人が寄ってきて、「そこは座れません。歩道側に足を出して座っていると、人がぶつかることがあるんですよ。座るなら、車道側に足を向けてください」と言いました。まあ、車が通っていないので、車道側に足を出しても安全なのですが、「石組みが痛むから」ではなく不思議でした。よく見ると、植え込みの中に看板があり、「座ること禁止」(のようにと)中国語でのみ書いてあり、体育座りしている人に斜線が引かれた絵が描いてありました。石組みに座ることくらい、自己責任でやらせてほしいものです。

 もう一点、東京駅の土産物売り場のレジで、前の人の後に並んで立つと、レジの女性が「そちらには立たないで、こっちに並んで下さい」とレジに沿った方に並ばせました。別に混雑しているわけでもなく、きつい声で言われてびっくりでした。

 こんな小さな規則でも、東京の人はちゃんと守るんでしょうね。そういえば、昔、駅のホームに「乗車位置」だけでなく「次の電車の乗車位置」、さらに「次の次の電車の乗車位置」が示されていたのに驚きまました。今なら、5台位後の電車の乗車位置も書いてあるのかな・・・?と、ラーメン食べるために20-30m並ぶ人を見て、想像しています。東京は住みにくい。

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新元号を使いました [雑感]

今日日本学術振興会からデータベースの更新要請があり、その中に科研費の欄がありました。現在交付されている科研費の最終年度を書く必要があり、早速「令和2年」と書きました。

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