SSブログ

山元春挙の「法塵一掃」と科学研究 [雑感]

明治から大正・昭和にかけて活躍した日本画家山元春挙の若い頃の代表作に「法塵一掃」がある。唐の禅僧周金剛が「経典は法の塵にすぎず、禅の悟りに不要であるとして、経典を焼き捨てた」という逸話を画題としたものである。描かれた僧の表情、衣、経典から上がる煙の描写は、極めて精緻ですばらしい。
 この絵を描いた頃に山元春挙が持っていた絵画制作に対する考えは、黒田天外の「名家歴訪録 中編」(1901)から知ることができる。原文のまま記すと
・一つの畫を描かふと思ひ、種々と工夫を凝してゐる間は頗る苦心惨澹ですが、其間に興趣が坌涌して氣乗がして來ると、もうぢっとしてゐられんことになる。而していざ筆を下ろすといふ際になっては、所詮無我で一物の胸中に蟠まる處なく、只筆に任せて描く。(108ページ)
・心酔したからとて包含咀嚼の力あるものはいつか脱化するので、一時の心酔は或る新境を拓く他日の動機になるであろふと思ひます。(109ページ)
・古人がこしらへて置いたよい形式は飽くまで學ばねばならんので、學んで之を自己に點化し、而して之を忘れる境界に到らねばならぬ。(110ページ)
 科学の研究は、それまでの知見の蓄積の上に発展するものであるが、従来の教科書を金科玉条のごとく信奉するなら新しい発見は生じ得ない。新たな発展のためには、法塵一掃のごとく、教科書や論文は批判的に読み、「読み捨てる」ことが肝要である。また、自然現象を理解しようとするとき、「あるときは分子になり、またあるときは波になって」、その現象の素を想像し、その想像の中から本質を見いだすことができれば、理論はほとばしり出てくる。この過程は、芸術や文学の製作・執筆と科学研究の創造力の源として揆を一にする


nice!(0) 

nice! 0